2009年06月16日

遊離したケミカルメデイエーターのうちもっとも

遊離したケミカルメデイエーターのうちもっとも重要なのは、ヒスタミンとロイコトリエンである。

ヒスタミン:知覚神経(三叉神経)を刺激してかゆみを感じさせたりくしゃみ反射を起こす。また、分泌中枢を刺激することで腺からの鼻汁の分泌も増える。
ロイコトリエン:血管を広げ、水分などが染み出ることにより粘膜が腫れ上がる。すなわち鼻詰まりがおこる。目(眼瞼および眼球結膜)などにおける反応も同様である。
その他、PAF(血小板活性化因子)、トロンボキサンA2、プロスタグランジンD2などのケミカルメディエーター、各種のインターロイキンなどのサイトカインも症状に少なからず関係するといわれるが、花粉症(鼻アレルギー)の実際の症状においては、どれほどの影響があるのかなどくわしいことは明らかになっていない。

こうした症状そのものは、体内に入ってきた異物を体外に出すための反応であり、また引き続いて体内に入ってこないようにする正常な防衛反応であると解釈できる。しかし、害のない異物と考えられる花粉アレルゲンに対して過剰に反応し、それによって患者が苦痛を感じる点が問題となる。

遅発相反応のメカニズム [編集]
症状を起こした粘膜では、血管から浸潤した炎症細胞(特に好酸球)からのロイコトリエン等によってさらなる鼻粘膜の膨張が起こる。その他のケミカルメディエーターや酵素などにより組織障害も起きる。抗原曝露後6?10時間にみられる遅発相反応がこれで、アレルギー性炎症と呼ばれる。こうした炎症細胞を呼び寄せるのも肥満細胞などから放出されるケミカルメディエーター(上記のPAFなど)である。
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慢性化反応のメカニズム [編集]
症状が繰り返し起こることによって、粘膜過敏性は増加し、症状は慢性化する。不可逆的な粘膜の肥厚なども起こり得る。重症例では、花粉の飛散が減少または終了しても、病変はすぐには改善されない。

Th細胞のバランス [編集]
一つの仮説として、免疫系を制御しているヘルパーT細胞のバランスが関与するという考えがある。抗体産生細胞であるB細胞に抗原の情報を伝達するヘルパーT細胞は、産生するサイトカインの種類により1型と2型(Th1とTh2)に大別される。これらのうち、インターロイキン4などを分泌してアレルギーに関わるIgEを産生するように誘導するのはTh2である。いっぽうのTh1は主に感染症における免疫反応に関わる。すなわちマクロファージやキラーT細胞などを活性化させ、細菌そのものやウイルスに感染した細胞を障害する(細胞性免疫という)。B細胞にIgGを産生させ、いわゆる正常の免疫を作ることにも関与する。

これらのことから、アレルギー患者においてはTh2が優位に働いているということがいえるが、なぜTh2が優位になるのかについてはよく判っていない。幼少時における感染症が減ったためにアレルギーを起こしやすい体質になっているのではないかという説については、この仕組みが関与していると考えられている。成長期において細胞性免疫を獲得する機会が減っているため、おのずとTh1よりTh2が優位になる人が多く、アレルギー人口が増えたというものである。強く影響を与える感染症としては、過去に国民病ともいわれた結核が疑われている。鼻症状に限定すれば、やはり過去には多かった副鼻腔炎の減少の関与を考える場合もある。

これらヘルパーT細胞のバランスは出生後数ヶ月のうちに決まるとも、3歳程度までのうちに決まるともいわれるが、のちに人為的に変化させることもできるという説もある。なお、ヒトは胎内にいるときや出生直後はもともとTh2優位の状態であり、また、Th1とTh2は相互に抑制しあう関係にあるという。

衛生仮説ともいわれるこの説は現在もっとも有力な説となっており、概ね広く合意を得ている。実際に結核のワクチンであるBCG接種によって花粉症の治療をしようという試みや、結核菌と同じグラム陽性菌である乳酸菌の一種を摂取することが治療に役立たないかどうかの研究も行われている。菌のDNAの一部であるCpGモチーフを抗原ペプチドとともに投与して減感作療法の効率をあげる試みもなされている。

環境中の細菌等が産生する微量の毒素が関係すると提唱する研究者もいるほか、最近では、医療における抗生物質の多用(によるヒトと共生している菌のバランスの崩れ)が関わっているのではないかという見方も出てきている。ピロリ菌感染との逆相関が認められることも報告された。

しかし、近年の研究によれば、単にTh1/Th2バランスによってのみ説明できることばかりではないこともあり、調節性T細胞の関与を考える説も出されている。衛生仮説を説明したこのTh1/Th2パラダイムは1980年代後半に提唱されたものだが、広く免疫を考えるときに重要なものであることは現在でも変わりがない。

2009年05月30日

久我家

久我(こが)家は、日本の氏族。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。

久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち太政大臣まで昇った者7名、左大臣まで昇った者0名、右大臣まで昇った者4名、内大臣まで昇った者6名である。

村上天皇の皇子具平親王の子師房が寛仁4年(1020年)に源朝臣の姓を賜わり、その孫にあたる太政大臣源雅実が祖。久我という家名は、源師房の代より伝えられ、山城国愛宕郡久我(こが)(現在の京都市伏見区久我)に構えた久我水閣が由来とする。ただし、その子源雅定は「中院」、その次の源雅通は「久我」、その次の源通親は「土御門」と呼称されており(『尊卑分脈』)、厳密な意味での「久我家」を通親の子久我通光を祖とする系統に限定させ、それ以前はあくまでも「村上源氏中院流」として捉える見方の方が正確とされている[1]。

鎌倉時代前期の源通親は内大臣となり、権勢を振るい「源博陸(はくろく/はくりく=関白の異名)」と称された。狭義における久我家の祖である久我通光は通親の次男であるが、異母兄堀川通具が平通盛の外孫であったことから通光が嫡男としての扱いを受けた。

また、雅定以来の中院流には源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格を有していたが、同流のうちの一門上首が任じられるのを原則とされたため、久我家以外の中院家諸家との間の持ち回りの任命となり、久我家の優位性を確立出来なかった。更に通光は承久の乱に連座して内大臣を更迭され、後に太政大臣に任ぜられたものの晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生し、不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。通忠後妻に庇護される形となった通忠先妻の子久我通基は正応元年9月12日、初めて宣旨をもって源氏長者に補任されて久我家の源氏長者の権威づけを図った。更に南北朝時代の久我長通は当時の公家社会における一門上首から家嫡系統を重視する風潮への変化に合わせて久我家を中院流の嫡流として確実にすることに力を注いだ。すなわち、西園寺公宗の処刑による混乱に乗じて西園寺家に渡った旧久我家領を取り戻し、他の中院流公家の源氏長者補任の阻止を図った。その工作が効を奏し、長通の没後に源氏長者になった嫡男久我長相以後源氏長者は久我家の独占となった。
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だが、室町時代に入ると足利義満が源氏長者となり、足利家が源氏長者となる慣例が成立する。ただし、足利将軍家そのものが後継者争いなどによって不安定な状況が続いたため、実際には村上源氏公家の久我家と清和源氏武家の足利家が交互に源氏長者に就任する様相を呈し、戦国時代に入ると再び久我家が源氏長者を独占して久我通堅まで続いた。また、中世以後当道座の本所としても知られた。だが、康正2年(1456年)に放火によって久我家の家記などの文書を失い、更に戦国時代以後に各地の荘園を失ったことで衰退し、豊臣政権期末期の慶長4年(1599年)に久我敦通と長橋局のスキャンダルで後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われたことから、江戸時代に入ると源氏長者は徳川家に奪われてその独占となり、久我家は摂関家に次ぐ清華家の家格を有したものの、実際には不振が続き、江戸時代の家禄とされる700石が確定したのは敦通の孫である久我広通の時代と言われている。以後は清華家として再び大臣を輩出するようになった。幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったともいわれるが、真偽は不明。 明治維新後の久我通久の代に侯爵家に叙せられた。

家紋は五つ竜胆車。庶流に、中院家、北畠家、六条家、久世家、東久世家、岩倉家、千種家、植松家、梅溪家がある。

久我家第三十三代当主、侯爵久我通顕の長女は女優の久我美子である。


2009年04月27日

西側同盟国の政府は9月3日

ポーランドの西側同盟国の政府は9月3日にドイツに宣戦布告した。しかし実際にはポーランドに対して具体的な援助をしなかった。ドイツ軍のほとんどの戦力(装甲部隊の85%)はポーランド攻撃に向けられていたのに、フランスはドイツを攻撃せず、独仏国境は静かなままだった。人はこれはまやかし戦争(英語phony war、フランス語Drôle de Guerre、ポーランド語Dziwna wojna、ドイツ語Sitzkrieg)と呼んだ。

ポーランド軍は国境付近でのいくつかの戦闘で勝利を収めることができたが、全体としてのドイツ軍の戦略的、戦術的、数的優位はゆるがず、国境地帯からワルシャワやルヴフの方へと後退させられていった。ドイツ空軍は作戦の早い段階で制空権を確保した。北から攻め込むクルーゲの部隊が当時の国境線から10キロメートル先にあったヴィスワ川に到達し、キュヒラーの部隊がナレフ川に行き着いた9月3日までに、ライヒェナウの機甲部隊はヴァルタ川を越えていた。2日後にはライヒェナウの部隊の左翼がウッチ市の後方へ進み、右翼がキェルツェ市に到達した。そのうちの1部隊は9月8日にはワルシャワ近郊まで迫ったが、これは最初の1週間で224キローメートルを進んだことになる。ライヘナウの右翼のうちの軽装の部隊は9月9日までにワルシャワとサンドミェシュ市の間にあるヴィスワ河畔地域に到達していた。このとき南部のリストの部隊はプシェミスル市近郊のサン河畔にいた。この間、グデーリアンは第3軍の戦車を率いてナレフ川を渡り、ワルシャワを包囲するようにして、ブーク川の敵戦線を攻撃していた。ドイツ軍全軍は予定通りに「白の場合」作戦を実行していた。ポーランド陸軍は寸断されて互いに連絡がつかず、いくつかの部隊は退却し、他の部隊は離れた味方と連携のとれないまま近くのドイツ部隊に攻撃を敢行せざるを得なかった。

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ポーランド軍はこの国境の戦いと呼ばれる一連の戦闘の後、最初の1週間でポモージェ地方、ヴィエルコポルスカ地方、シロンスク地方を放棄せざるを得なかった。これによって、国境地帯を広く防衛するというポーランドの当初の計画は完全に誤りであったことが明らかとなった。一部に遅れがあったものの、全体としてドイツ軍の進軍はほぼ予定通りに行われた。新しく設定された東方の防衛線にまで後退するポーランド部隊はドイツ軍の進撃のペースに間に合わなかった。9月10日には、ポーランド軍総司令官ルィツ=シミグウィ元帥は全軍に対し東南部のいわゆるルーマニア橋頭堡地方への全面撤退を命令した。

一方ドイツ軍はヴィスワ川西方(ウッチ市やポズナニ市など)のポーランド軍に対し包囲網を狭めており、東部への進撃の準備にとりかかっていた。戦争の最初の数時間に猛烈な爆撃を受けたワルシャワ市は9月9日にドイツ地上部隊の最初の攻撃を受け、9月13日からは攻囲を受けた。そのころ、ドイツ軍の最前線部隊は東ポーランドの中心都市であるルヴフ市にまで到達していた。9月24日には1,150機ものドイツ軍機がワルシャワ市街を攻撃した。

2009年04月10日

バルブトロンボーンについて

バルブトロンボーンは、音程を変えるための機構としてスライドではなく、現代の他の金管楽器と同様に3個以上のバルブを備えたものである。このバルブは現代ではピストン式が多いが、ロータリー式のものも存在する。その他の外見は一般的なトロンボーンに近い。スライド式の楽器と同様に色々な音域のものがある。19世紀前半の金管楽器のバルブ機構の発明に合わせて誕生したため、19世紀から20世紀初頭にかけてはイタリアやフランス、中欧地域を中心に広く(一時はスライド式以上に)用いられた。ロッシーニ、ヴェルディなどイタリアの作曲家の他、ブラームス、ブルックナーの作品など、この時代の楽曲の大半はこの楽器を想定して書かれたといえる。

その後、スライド式が楽器や演奏技術の向上によって復権を果たすと廃れていったが、一方ではジャズなどポピュラー音楽の世界で使われるようになり(ファン・ティゾール、ボブ・ブルックマイヤーなどが著名な奏者としてあげられる)、クラシックの分野でも20世紀終盤以降は再び使用が試みられるようになった。

ドイツ式トロンボーンについて [編集]
ドイツ式トロンボーン、ドイツ管などと呼ばれる楽器は、やや大きめのベルを持つドイツ・スタイルの楽器のことで、均一化が進んだ他の地域のトロンボーンとは一線を画している。やや細目のボアと響きを抑える為のクランツと呼ばれる金属片が縁についた比較的大きなベルを持ち、弱音時の円錐管に近い柔らかい響きと、強音時の鋭く割れた響きが特徴的である。その音色傾向から、日本などではクラシック音楽でドイツ系の楽曲を演奏する際に使われることが多い。チューニング管やスライドに「蛇飾り」と呼ばれる細い金属の装飾がついているものもある。

基本的にどのメーカーでも全て受注生産で、決まった型番のようなものはなく、奏者の要望に応じてパーツ1つ1つを組み合わせて作り上げる、いわば「工芸品」「芸術品」である。それゆえに値段は高い。F管アタッチメント付テナートロンボーンはチューニングスライドにバルブがついており、バルブ無しのチューニングスライドと差し替えできるものが一般的である。一般的なトロンボーンとは、蛇飾り、ベルクランツ、ロングウォーターキー(スライド先端の水抜きのための機構を、スライドをつかんだまま操作できる)、操作レバーとF管バルブ部分とが紐で結ばれている、スライドの全長が若干長くポジション間隔が違う、低くなりがちな第7倍音の音程が高い、というのが主な相違点である。

日本のプロ・オーケストラでは、大阪センチュリー交響楽団、東京佼成ウインドオーケストラ、大阪市音楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、大阪シンフォニカー交響楽団がレッチェ、タインなどのドイツ式トロンボーンを使用している。

特殊なトロンボーン [編集]
チンバッソ(cimbasso)
イタリアで用いられた、バルブ・トロンボーンの一種または近縁の楽器。ロータリー・ヴァルヴ式で、音域はコントラバス・トロンボーンやチューバと同じである。主としてヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラでチューバの代わりに用いられる。イタリア音楽では“Trombone Basso”あるいは“Trombone Contrabasso”と書かれていてもチンバッソを用いる。ドイツ式のチューバ(コントラバス・チューバ)は強奏でもなかなか綺麗に音が割れないため、イタリア・オペラのカトリック的な悪魔的表現に適さないので代わりに使われたのだろうと言う説がある。現在でもオペラ、オーケストラにおいて使われることもあり、通常はチューバ奏者が担当する。ウィーン国立歌劇場ではワーグナーの『ニーベルングの指環』でもコントラバストロンボーンの代わりにチンバッソを用いている例がある。
スーパーボーン
ピストンとスライドの両方を備えた特殊なトロンボーン。通常左手でピストン、右手でスライドを操作する。トランペット奏者のメイナード・ファーガソンが考案した。
マーチング・トロンボーン
外見はトロンボーンというよりは大型のコルネット、あるいは前方に構えるユーフォニアムのようである。スライドではなくバルブを備え、屋外のパレードなどで使用される。
トロンボーンと酷似しているが、全体にベルが小さく、ベルの開き方も比較的ゆるやかである。現代のトロンボーンよりずっと軽量で、大きな音は望めないが柔らかな音色を持ち、小編成の合奏・オーケストラや声楽とのアンサンブルに向く。現代のトロンボーン同様、ソプラノ・アルト・テナー・バスの各サイズの楽器がある。
ビュサン(フランス語:buccin)
ベル自体が龍の頭をかたどった形をしている。19世紀に考案され、フランスやベルギーで使われた。
アドルフ・サックスが考案した6個のバルブを持つトロンボーン
テナートロンボーンと呼ばれているが、実態はサクソルン属の楽器。詳細な名称の由来などは不明。これは各バルブが異なる音程のベルに対応しているもので、トロンボーンの名は持つが外観は大きく異なっている。博物館に所蔵されているのみで現在は使われていないと思われる。

歴史 [編集]
非常に古い歴史を持つ楽器であり、起源はトランペットと共通である。かつてはサックバットと呼ばれた。15世紀頃にスライド・トランペットの一種から発生したと考えられており、基本的な構造は昔の姿をそのまま留めている。軍楽隊やオーケストラで使われるようになる前から長く教会などで使われていた。そのためトロンボーンはクラシック音楽の中で、神を象徴するものとして扱われることがある。

最初に交響曲でトロンボーンを使ったのはベートーヴェンで、交響曲第5番の第4楽章で用いた。これは当時「世俗」的と考えられていたオーケストラに、教会で使われていた「神聖」な楽器を使ったという点で画期的なことであった。ただし、オペラや教会音楽の分野ではそれ以前からオーケストラに加えられていた。大編成のオーケストラに定席を得たのはロマン派の時代である。

19世紀、おそらく1830年代にはバルブ(ロータリー)の追加が行われた。これ以降各地のオーケストラではバルブトロンボーンが盛んに使われたが、19世紀中葉から第一次世界大戦前後にかけて徐々にスライド式の楽器が復権し、バルブ式に取って代わっていった。例えばウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では1880年頃までバルブ式の時代だったと言われている。

他にかつて盛んに使われていた楽器としてはF管バストロンボーンも挙げられる。地域によって細かな年代に違いがあるが、この楽器は操作性に劣ることやオーケストラピットで長いスライドが邪魔になったこと等から後に衰退していった。

また、一時期フランスのオーケストラではバストロンボーンを使わず、3本のテナートロンボーンを使うのが標準的であった。フランスのトロンボーン四重奏団がバストロンボーン奏者を含まないことがあるのはその名残りだという説もあるが、これには編成の柔軟性を増し個々の奏者の負担を減らすために便宜上テナートロンボーンを使用しているだけだ、という反論もある。

バルブ(ロータリー)の改良はさらに進み、円錐形のセイヤー・バルブ、円柱を横倒しにした形のハグマン・ロータリー、演奏家リンドベルイが開発に関わったCL2000バルブや、ヤマハの細長いVバルブなど、様々な機構が開発されている。

こうしてトロンボーンは楽器の普及や西洋音楽の広まりとともにジャズ、スカ、サルサなど様々な音楽で使用されるようになった。

いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ


2009年03月27日

ロストエンジェルス

22〜27cmサイズの完成品ドールが数多くラインナップされている。 ペイント・ヘアカット済みのヘッドやオリジナルの衣装があらかじめ組み合わせられており、ドールを自作できない人でもすぐに楽しむことが出来る。

新作の入手にはドールズパーティーやショールームで行われるアフターイベントで、発売済みの品に関してはショールームやボークスの通販で入手できる。 そのほかオークションなどでも新旧問わず数多く出品されている。

使用素体 [編集]
ドールには以下の素体が使用されている。

エクセレントボディ(旧・NEW)
NEO-EB(通常・ティーンズ)
EB-Beauty
EB-BeautyMidi
EB-Mini
エレガント素体
ドルフィードリーム素体

物語 [編集]
地球に舞い降りた光側の迷子天使と闇側の堕天使が戦いを繰り広げる。一方 人間側も、ガンギと呼ばれる企業が人工天使を生み出し、天使と堕天使に対抗する。 根幹を成すストーリーはシリアスだが、ギャグストーリーも多様多彩でファンにウケている。 小説はコンセプトノート(No.1?No.4まで)、公式サイト(外伝が中心)などに掲載され、発売商品には各キャラクターについての詳細が書かれたインストカードが添付されている。

キャラクター [編集]

迷子天使 [編集]
如(キサラ)
光の天使達の上に立つ大天使で、堕天使に対抗する強大な力を持つ。 幼い少女の姿から、15〜6歳くらいの少女に変化することができる。

志野(しの)
第一階位を持つ迷子天使で、茜理の姉。東京に降り立った際に梶平蔵に出会い、彼の家のメイドとして働くことに。

茜理(あかり)
志野を追いかけて東京の吉祥寺に降り立ち、喫茶店『キャスロール』の住み込みウェイトレスとして働く。 天罰くんというステッキで魔法少女に変身し、ギュンナと戦うことに。 料理が趣味だが、『茜里スペシャル』という見た目が最悪な創作料理を作ったことがある。

眠麗(みんれい)
中国に降り立った天使で、メイメイとフェイに出会う。 後に力を失ったメイメイを守ることになる。

アマンダ
ニューヨークに降り立った天使。冷静な性格の持ち主だが、実は可愛い物好きでファンシーグッズ収集をしている。マリムやプレアデスと戦うことになるが、ある事件がきっかけで行方知れずに。

ベッキィ
ロサンゼルスに降り立った天使。超方向音痴でゲーマー。ルーニの家庭教師となり、ギルと戦うことに。

マリア
スイスに降り立った天使。病気の人々を看護している中でドラとミミコットンに出会い、三人で仲良く暮らしていたのだが……。

クラウディア
フランスに降り立った天使で、エミール・シャルティエの秘書となる。迷子天使の中で一番歌が上手い。 ザーラとの戦いで敗北し、彼女の精神世界に封じられるが、クレメンスを救済するためにザーラに天使の力を与えた。

ソフィア
イタリアに降り立った天使で、ダリアン(=ダークメア)と戦いながら仲良しになっていく。 前向きでお気楽な性格だが、歌が超下手。

サンジー
インドに降り立った天使。穏やかではあるが快活な性格で、舞踊(バラタナーティアム)が得意。

マーガレット
ロンドンに降り立った天使で、とある貴族の令嬢(養女)になる。ティートとは親友関係。 南極に行った時に身体が変化し、一旦13歳まで若返ってしまう。 


堕天使 [編集]
闇姫
10人の堕天使を作り出した、闇の王女。キサラとの決戦で勝利し、彼女を拉致し行方不明。

ララ
第一階位を持つ迷子天使で、ギュンナの姉。 志野とは対極の存在で、彼女と何度も戦闘を繰り広げることに。

ギュンナ
ララの妹である堕天使。 くとぅるーちゃんというステッキで魔法少女に変身することが出来るが、茜理に振り回されることが多い。

ザーラ
ララのライバルにあたる堕天使で、フランスのクレメンスの一人娘に成りすまし、クラウディアと戦うことになる。クラウディアとの戦いに勝利し、後に入手した彼女の力を使うことになる。

ドラ
死をつかさどる堕天使で、マリアと出会い共に生活することになるが、ある試練がきっかけで突如姿を消してしまう。

ダリアン
やる事なす事が全てが裏目に出るへっぽこ堕天使。愛嬌オーラが漂っていてソフィアになつく。その内面には最強の破壊神ダークメアが眠っていて、ボイドを開いた場合ダークメアの人格が覚醒する。

ダークメア
堕天使の中で最強にして、最悪の破壊神と呼ばれる。 全てを圧倒し破壊する絶大な力を持つ。人工天使シグナスとの戦いで、シグナスが放った必殺技により沈黙。 再び封印の眠りにつく。

ギル
闇姫直属の堕天使で、ほとんど無口で感情がない暗殺者。ベッキィ・シリウスと対峙することに。

マリム
闇姫直属の堕天使で、カリスマ性がマーヤと同じくらい高い。後にアマンダを追うことになる。

マーヤ
堕天使の中で一番恐れられている存在だが、他者に対しては柔和な対応をしている。 力ずくで物事を動かすことが嫌いで、サンジーやゆっきぃに対しては好意を持っている。

メイメイ
眠麗のライバルに当たる堕天使で、フェイの雇い主。 ララとの戦いで彼女に力を明け渡したために、容姿と性格が変化してしまう。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

ロウラ
ロンドンに降り立った堕天使で、優雅でスマートな戦い方を好む。 北極に行った時に13歳まで若返り、その後自分と同じ境遇に遭ったマーガレットと親友になり、共に行動するようになる。

ゾルーディア
ザーラがクラウディアの力を発動し、変身した姿。破壊天使としてララと戦うことになる。

2009年03月11日

パナマ旧市街

フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

植民地時代のパナマ・ビエホの歴史的遺産とパナマ旧市街は、中米の国、パナマの首都であるパナマシティの東に位置している世界遺産に登録されている文化財として貴重な建造物群である。

2003年の第27回ユネスコ世界遺産委員会パリ会議において、文化遺産に登録される。


パナマ・ビエホの古建築群は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

登録基準

(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
(vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。
2003年の世界遺産登録に先駆けて設立された第3セクター方式の財団(非営利団体)。1995年にパナマの文化財所管官庁 INAC(国立文化院 スペイン語 Instituto Nacional de Cultula)と IPAT(パナマ観光庁 スペイン語 Instituto Panameño del Turismo)が国際奉仕団体クラブ・キワニス(英語 Club Kiwanis)・民間銀行バニストゥモ(スペイン語 Banistmo)と共同出資した。四者の代表者からなる理事会のもとに、総括事務部門・考古学部門・建築学部門・遺物保存修復部門と付属博物館から構成されている。

現在、古建築群が立地ないし埋蔵されている280,000?にも及ぶ広大な地域は、歴史公園として財団が管理している。また、公園内には大聖堂前に土産物店等が入居する建物(旧軍司令部)と1953年にパナマ建国50周年を記念して作られた生活・基幹道路の建国50周年記念道路(ビア・シンクエンテナリオ スペイン語 Vía Cincuentenario)があるが、ともに貴重な文化財保護の観点から財団では移転を国に強く要望している。

2006年には『Canto Rodado(カント・ロダード 道路舗装のために使われた縦石)』という考古学と建築学の研究紀要を公刊した。財団設立時の遺産復興計画(マスタープラン)によると、歴史公園内の発掘調査ならびにその成果を尊重した古建築群の復興を遂げ、当時の町並みを復元することを最終目標として掲げている。

付属博物館(セントロ・デ・ビシタンテス・デ・パナマ・ビエホ  スペイン語  Centro de Visitantes de Panamá Viejo)・大聖堂(鐘楼)の概要と観光時の注意事項


開館時間 火曜日から日曜日の午前9時?午後5時(入館は4時まで)

休館日 毎週月曜日、一部祝日など特別に財団が定める日(詳細は要問合せ)

料 金   博物館 US$3.00, 鐘楼(展望台)US$4.00,共通入場券(博物館・鐘楼)US$6.00(米ドルとパナマ通貨バルボア(B./)は等価)

アクセス 郊外にあるトクメン国際空港からタクシーで40分、新市街(町の中心部)から15分

その他  青年海外協力隊員が活動しているので、博物館受付で申し込めば日本語による解説(博物館と遺跡見学で約2時間程度)も可能です。しかし、基本的に土・日曜日とパナマの祝日は不在です。

注意情報  現在、「サン・ホセ修道院」と「王の橋」がある北地区については、周辺の治安悪化による外国人旅行者の犯罪被害が散発しています。そのほか、遺跡と居住区域が接している場所についても常に注意が必要です。
文化財の発掘調査・研究と付属博物館での展示業務を主務とする。建築学部門と連携して効果的な建物群の保存を図っている。

部門長は国立パナマ大学歴史学部文化人類学科の考古学担当教授が兼任している。所属職員は発掘調査研究員(アルケオロゴ スペイン語 Arqueólogo)1名と発掘調査ならびに発掘調査をあらゆる方面から支援する文化人類学の専門研究員(アシステンテ スペイン語 Asistente)2名である。

なお、2003年から財団では日本の青年海外協力隊員を受け入れており、Arqueólogo2名体制で埋蔵文化財の発掘調査や文化財保護・保存の活動を行っている。職員の国内外における学会活動も盛んで、欧米を中心とした考古学研究者が年間を通じて多く来所している。
南北55m、東西最大35mの規模を持つ町の象徴的建物。現在では多くの観光書・パンフレット等にも掲載されている。町の設立当初、16世紀初頭には小規模な木造建物だったが、1619年には現存の石組み建物が建設されている。町最大の広場である中央広場の東に面している。建物は南北方向に長く南に祭壇があり、左右に付属礼拝堂を伴う形はさながらラテン十字を模すバシリカの様相を呈している。また祭壇右奥に高さ33mの鐘楼(トーレ スペイン語 Torre)が敷設されている。鐘楼は2006年4月に修復5ヵ年計画が完了し、本来内部は吹き抜けだが階段を設置して展望台として一般に公開している。また、パナマ・ビエホ財団のロゴマークはこの鐘楼をデザイン化したものである。

中央広場(プラサ・マジョール スペイン語 Plaza Mayor)

東西60m、南北55mの範囲が現存しており、当時の地図から正方形であることが知られていることから南側は現存建物や駐車場等によって破壊されている可能性がある。建国50周年記念道路建設時(1953年)に、大聖堂まで直接車が乗り入れられるロータリー(道路)が敷設されていた。しかし財団設立時に文化財保護の観点から国に撤去を陳情し実現している。その後に発掘調査が行われ、広場西側の建物群や広場創設時以前の貴重な先住民族(インディヘナ)の遺跡が確認されている。

女子修道院(ラス・モンハス・デ・コンセプシオン スペイン語 Las Monjas de Concepción)

町で唯一の修道女のための施設。会派はスペインに本部を置く「無原罪の御宿り女子修道会」(スペイン語 Limpia Concepción de Nuestra Señora)。東西120m、南北60mの敷地の中に多くの建物があったことが当時の地図によってわかっている。1594年11月29日に町議会議長のフランシスコ・デ・カルデーナスのもと、検事総長のアンドレス・コルテスの女子修道院設立の提案が議会で承認された。検事総長の提案の原点は、町に住む財産を持たないために将来結婚できない貧しい家に育った少女や身寄り・収入のない未亡人たち、または親がいない農民の子供たちを救済することにあった。女子修道院設立のために現在のペルーの首都、当時はスペイン統治下のリマから院長と副院長、修道女の教育を担当する教師の総勢3名が1598年6月10日にパナマの町に船で到着した(そのほかに修道女の諸用を勤める女性1名がいたが途上船内で死亡した)。設立当初は財政的に恵まれていなかったが、17世紀にいたって町の有力者フランシスコ・テリン(スペイン語 Francisco Terrín)の財政的支援を受け、周辺の地所を取得・拡張を繰り返して町最大の宗教施設になった。17世紀初頭には従来の木造建物から現存する石造建物に作り変えられたが、1621年の地震によって大部分が崩落した。再建間もない1671年、ヘンリー・モーガンによる町襲撃時に修道院長は修道女たちを小さな船に乗せてリマへと立ち去った。町の復興後は中心部に近い場所に再建を果たしたが、往時ほどの勢力を保つことはできなかった。現在では礼拝堂の修復作業もほぼ終了し、床部分を補強して記念式典や演劇・ミニコンサート会場などとして現地に密着した利用が図られている。

貯水タンク(アルヒーベ スペイン語 Aljibe)
女子修道院内の中庭に設置された屋根覆いのない半地下構造の施設。1594年に建設され、乾季には最大12,400リットルもの水を溜めることができた。当時、町の井戸水は海が近かったために飲料に適さなかった。12月後半から4月上旬までの乾季には、貯水タンクができるまでは十分な飲料水の確保が難しかったために、住民は水売り人と呼ばれる現地の商人からの購入を余儀なくされた。現地に上水道が敷設される20世紀の初頭まで使用されていた。

コンパニア・デ・ヘスース修道院(スペイン語 Compañía de Jesús)
16世紀後半から17世紀初頭にかけて建設された敷地東西85m、南北55mのイエズス会の修道院。大聖堂から西に向かう大通りの北側に位置し、西側では女子修道院と路地を挟んで接している。建物群は東側に集中している。通りに面した教会施設の北側に中庭を配し、周囲にその他の建物群(内庭回廊)が配置されている。また現存する建物の壁が比較的高いことから2階建てだったと考えられる。礼拝施設は全部で3ヶ所あったことが文献で確認されているが、現在では教会建物の大祭壇正面の壁のみが明確に残っている。この壁上部には丸窓が2ヶ所残っており、ステンドグラスがはめ込まれていたものと推定されている。教会東側の正面出入り口について、2003年に協力隊員による発掘調査が実施され、20世紀の整地(盛り土)の下から当時のレンガ敷きの床面が確認されている。

地元中学生の研修場所として活用が検討されている教会北東側の部屋(内庭回廊の一部)を2007年1月から全面発掘調査が行われた。当時のレンガ敷きの床面や下層から検出された修道院建設以前のプレ・イスパニコ文化の貴重な遺跡が発見されている。

サン・フアン・ディオス病院(オスピタル・サン・フアン・ディオス スペイン語 Hospital San Juan Dios)
町で唯一の療養施設。現在は西側(45m)と北側(30mほど)に高い石壁が残っているのみである。歴史的に見て建物群はサン・フアン・デ・ディオス修道士によって土地が取得された17世紀には完成をしていたようである。1620年には病院はまだ小さく、民有地を間借りしていた。また付設の教会が当時の地図によって存在していたことがわかっており、2003年と05年にドイツの大学調査隊が教会建物の床面を検出している。現存する西側壁面が教会西壁に相当する。今後も発掘調査の成果が期待される。また南側に接して建国50周年記念道路が通っていることから、教会入り口付近が確認できていない。

サン・フランシスコ会修道院(コンベント・デ・サン・フランシスコ スペイン語 Convento de San Francisco)

女子修道院の南西に位置するフランシスコ会の男子修道院。東に位置する女子修道院と同規模の敷地面積を有し、建物自体は南北に長かったことが当時の地図によって知られている。南北に90m現存する建物は、倒壊した大量の石材と周辺の宅地化によって北端部分の遺構の確認ができていない。また内部には2ヶ所の中庭があって、高い壁から2階建てだったものと思われる。従来から周辺の急速な宅地化など遺跡の崩壊が認められている上に、建物の南端に建国50周年記念道路があることで、車の振動や排ガスによる現存建物崩壊の危機が関係者から指摘されている。

テリン邸跡(カサス・テリン スペイン語 Casas Terrín)

大聖堂の西側、中央広場の北側に位置する16世紀末から17世紀初頭の町の有力者フランシスコ・テリンの邸宅跡。現在は母屋部分(東西45m、南北30m程度)と北に接する2棟の小建物の基礎が若干残っているに過ぎない。1600年の中央広場拡張と20世紀の大聖堂前のロータリー建設に伴って周辺の土地が改変されており、建物の南側が破壊されている可能性がある。また1997年から98年にかけて建物敷地の南側で発掘調査が実施されており、当時の個人邸宅としては珍しいアーチ型門の存在が確認されたことが特筆される。同じく現存建物の内部にもアーチを使った部分が一部現存しており、直近で見学することができる。

テリン夫妻が新しい礼拝堂で結婚式を行うことを条件に私財を寄付をしたことで女子修道院の誘致が実現している。

司教館・アラルコン邸跡(カサ・デル・オビスポ スペイン語 Casa del Obispo  カサ・アラルコン スペイン語 Casa Alarcón)

大聖堂の正面入り口北側に位置する建物。1640年ごろまではこの地に大聖堂で奉仕する司教の木造建物があった。その後、40年代後半になってペドロ・デ・アラルコン(スペイン語 Pedro de Alarcón)に土地の所有権が移り、中2階を持つ石造邸宅が建てられた。現存の建物は南北45m、東西20mを測るアラルコン邸のもので、1階と中2階が石造り、2階は板壁を有していたことが当時の文献からわかっている。建物は1階部分が塀で囲まれた中央の中庭を挟んで南側に居住空間、北側に調理場を有する長方形で、中2階以上は現存していない。1988年と2000年に建物内部での発掘調査が部分的に行われているが、全容解明にはいたっていない。

西の建物群(カサス・オエステ スペイン語 Casas Oeste)

1995年から翌年にかけて財団の考古学部門長が発掘調査を実施している。その報告書によると、中央広場の西に接する地点から植民地期と思われる建物群の痕跡を検出した。検出遺構は北側に接しているCalle de la Empedrada(エンペドラーダ大通り)に沿うように壁と思われる基礎部分と南側に広がる丸石を敷き詰めた床面、十字に交差する柱の礎石部分などである。北側の壁には幅2mの金属製扉が設置されており、通りに面した間口は10m弱であった。また内部からは瓦片や建築に用いたと思われる鉄釘、壁を構成していた石片やしっくいが折り重なるように出土している。なお丸石を並べた床の下層から別のレンガ敷き床面を検出している。建物群の性格としては他の建物以上に重厚なつくりであることや釘を中心とした鉄製品が大量に出土していることから鍛冶工房の可能性を指摘する研究者もいるが、未だ定説はない。 発掘調査報告書では複数の建物群(報告書では2?3棟)を検出したとしているが、今後は出土している遺構や遺物の比較検討・各種文献による史料批判が必要となっている。

サント・ドミンゴ修道院(コンベント・デ・サント・ドミンゴ スペイン語 Convento de Santo Domingo)

大聖堂の北100mのところに位置する東西60m、南北55mの建物を有するドミニコ会の男子修道院。設立は16世紀の終わりから17世紀の初頭にさかのぼることが今日の調査・研究によって知られている。建物は他の修道院と同様に中央に中庭があり、それを取り囲むように内庭回廊とその他の建物が立地していた。東側に礼拝堂等の主要建物があって左右非対称のようである。建物の西にはカリブ海の町ポルトベロ(スペイン語 Portobelo)まで続く「王の道」(カミノ・レアル スペイン語 Camino Real)が通っていた。

ジェノバ人の家(ロス・ヘノベセス スペイン語 Los Genoveses)
16世紀以降、当地での黒人に特化した人身売買を独占的に行っていたジェノバ(イタリア)人の屋敷跡。屋敷は石造2階建てで上層階は木造だったと推定される。これら売買から得られる利益は、大商人とヨーロッパの国家との融資契約にも匹敵するほどだったといわれている。建物の東側は現在では陸地化しているが、直接船が着岸できるような低い石壁が建物の沿って現存している。

2007年2月からコロンビア人大学院生と合同で、建物北西側と北側の広範囲で発掘調査を実施している。建物の北西側からは表土直下から植民地時代の土器や金属製品等が多数出土しており、建物の北側は近年宅地化される際に造成された痕跡が認められた。今後はパナマにおけるスペイン人主導の町にあって、異国人であるイタリア人がどのようにして独自の経済活動を発展させたのか各種文献や考古学的研究が待たれる。

統治府(カサス・レアレス スペイン語 Casas Reales)

大聖堂の東方、岬の先端部分に位置する独立した小島に設置された一連の建物群。島の周囲には町で唯一の障壁がめぐらされており、陸地とは木製の桟橋でのみ結ばれていたと推定されている。現在は南側の建物礎石(南北20m程度、東西7m)のみが残り、島は陸続きになっている。島内中央部には3棟の石造建物(うち中央のみが木造)が建設され、南側は統治府長官の事務所、中央部分は統治府政庁舎とスペイン王室会計院、北側には裁判所と牢獄があったことが文献史料から分かっている。

町議会棟(エル・カビルド スペイン語 El Cabildo)

15m四方、ほぼ正方形の中2階を持つ建物である。現在では建物の基礎のみが残っている。北側は大聖堂と幅2mほどの細い路地をはさんで接している。1996年に発掘調査が一部実施され、大聖堂(鐘楼)西壁ラインの延長線上に門の礎石跡と建物内部で上層階へ上がる階段跡を検出している。

西地区
メルセー修道院(コンベント・デ・ラ・メルセー スペイン語 Convento de La Merced) 
大聖堂を中心とした町づくりの中で、孤立するかのように町の西外れに設立されたメルセル会の男子修道院。北側に祭壇を有し、南の海に向かって建っていたことがわかっている。南北50m、東西20mを計る左右非対称の祭壇を持つ礼拝堂のわずかな壁面と基礎部分のみが残っているだけで、今日では考古学的調査・研究がほとんど進んでいない。近年、青年海外協力隊員による礼拝堂入り口部分の発掘調査が行われ、現代では失われてしまっていた当時の通りの跡を検出した。このことがきっかけとなり、当時の道を再現した遊歩道が整備された。なお礼拝堂の北側はおよそ7?8mほどで宅地と接しており、礼拝堂部分は建国50周年記念道路によって南北に分断されていることから当該遺跡は文化財の危機に瀕している。また近年の研究成果から、遺構の残存状況が極めて良い(火災痕跡等がない)ことや地理的要因から、1671年にモーガン一味が町を襲撃した際の拠点となったのが当該修道院だったことが最近の研究でわかってきた。

歴史的にも古いこの橋は、16世紀末から17世紀初頭にかけて従来の木製橋から全長12mの石橋に架け替えられた。この橋が架かる川を境に市内と市外に区別されている。橋の西詰め(市外)には囲いを持つ公設の屠殺場があった。また建物前の広場ではパナマの先住民族インディヘナ(スペイン語 Indígena)による共同市場があった。最近の研究によってヘンリー・モーガンたちが町に入ったのはこの橋からではないかという説がある。これは実際に戦いが行われた日々の地点分析と黄金輸送のため警備が厳しかったカミノ・レアルを通過した形跡がなかったことを論拠としている。近年では自動車橋として補強工事が行われており、当時の外観を損ねている(建国50周年記念道路建設時に、北側に隣接して新たなコンクリート橋が作られた)。

クリスマス砦(フエルテ・デ・ラ・ナティビダー スペイン語 Fuerte de la Natividad)
建設年代は不詳。

マタデーロ橋の東詰めに位置する10m四方の現存する唯一の守備施設。1607年以前の史料に見えないことからそれ以後の建設であったといえる。砦には数名の兵士が常時駐留し、若干の大砲が配備されていた。もともと都市自体の守備計画はあったものの、実行されることはなかったので総合的な守備能力は低かったことがいえる。

現在、遺構の北側を走る建国50周年記念道路からの振動によって一部壁面が崩落し、緊急復旧作業が行われた。

北地区
王の橋(プエンテ・デル・レイ スペイン語 Puente del Rey)

歴史公園の北端に位置する全長35mほどの橋。1619年に従前の木造橋からアーチ型石造橋に造り変えられた。完成は1634年。この橋を多くのロバがカリブ海に停泊するガレオン船に積み込むために南米インカの財宝を積んで通り過ぎた。これらの財宝はカリブ海のポルトベロから大西洋を渡ってスペインのセビリャやカディスまで運ばれた。17世紀当時、ヨーロッパにもたらされたラテンアメリカの金(きん)は、ヨーロッパ市場を暴落させたとの記録が残っている。この橋の当初の目的は、パナマの町からカミノ・レアルを経てポルトベロ(カリブ海)に至る連絡通路を確保することにあった。

王の橋の南に位置する男子修道院。17世紀の最盛期に描かれた町の地図にも記されていないことから建設(進出)そのものが遅かったものと思われる。現在では教会の遺構(東西、南北ともに20m)のみを見ることができる。この建物は上部にアーチ型天井を持つ町で唯一のものであったが、1998年までにすべて崩落した。この修道院自体完成しなかった可能性を持っている。また建物の東の方には修道院の建物が存在したが、遊び場を建設するために1980年頃に平らにされた。かつて、20世紀初頭の建築家レオナルド・ビリャヌエバが建物遺構を測量しており、その報告書によると建物遺構は木造建築で、回廊が未完成だった。今日、建国50周年記念道路が西側に接するように敷設されており、一部西側の壁面は道路側に倒れ掛かるなど保存状況の改善が急がれる。相対的に周辺地域の都市化・都市公害などによる汚染・老朽化も急速に進んでいる。

パナマの町が成立したのは、1513年に若きスペイン人探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが現在のパナマ東部ダリエン地域からパナマ地峡を横断し、現在のダリエン県都ラ・パルマがあるサン・ミゲル湾で太平洋を「発見」したことに端を発する。一説によると、その時に砂浜で出会った青年漁師に地名を問うたところ「パナマ」と答えたことからその沿岸地域一帯をスペイン領パナマと命名した。後になってパナマとは現地の言葉で「海産物が豊かに取れる場所」という意味であることが分かっている。その後1519年8月15日にスペイン王室からパナマ地方の総監兼総督に任命されたペドロ・アリアス・デ・アビラ によって、現在のパナマ・ビエホに太平洋沿岸で最初のスペイン植民都市が成立したのである。 16世紀初頭は300人程度のスペイン人のみを抱える都市として始まったが、17世紀後半の海賊襲撃時には人口は12,000人にも膨れ上がっていた。当時から友好的なインディヘナたちをキリスト教化しながら、また一方ではスペイン人統治に反対する者には黄金輸送などの強制労働などを課した。混血も早い時期から進み、町の人口増加に拍車をかけた。

パナマの町は、南米から大量の黄金やボリビアのポトシ銀山の銀を海路で、また陸路でカリブ海へ運ぶ中継地点として栄えてきた。また成立初期からバルボアの部下としてパナマにやってきたフランシスコ・ピサロは現地インディヘナたちの情報を元にパナマから3艘の船に乗って南米のインカ帝国を滅亡させるなど、政治的にもより多くの黄金獲得と植民都市成立のために中米や南米諸国に探検家たちを旅立たせる拠点としての役割も担ってきた。

1671年1月28日、町に侵入したイギリスの海賊ヘンリー・モーガン一味は当時、黄金交易でにぎわっていたパナマの町に火を放って(諸本によると、パナマの総督が逃げ失せるために自ら町に火を放った)、黄金を略奪した。海岸線に建物がひしめき合うように立地するパナマの町は、殆ど防御施設を持たなかったために2月24日まで(現地をみた他の海賊の証言では4週間以上)町全体が火に包まれたとの記録が残っている。その後、町は復興されることなく、2年後に高台で以前から移転計画のあった西に約11km離れたカスコ・ビエホに町機能をすべて移転させた。このときに焼け残った公共建物や宗教施設で使用されていた石材が持ち運びだされ、再利用されている。現在でも見られるものとして、西端に位置するメルセー教会正面の彫刻が施された化粧石、大聖堂の正面壁面の石材などがある。

町の再建が断念された理由としては海賊の襲撃が致命的であったこともある。しかしそれ以前の1621年にパナマを襲った地震の被害が甚大であり、復旧を援助してもらうためにスペイン王室に費用負担を申し出る書類が確認されている。総合的に被害状況が関係者にとって予想以上だったとの見解が数年来、各種論文で指摘されている。一方、発掘調査で確認される植民地時代の建物のレンガ敷き床面が略奪によるもの以上に破損している状況が看過されるからも同様の結果が推察できるようである。 再建が断念されたかつての町は、後に各宗派が新しい町での施設再建のために残存建物から建築部材を切り出す作業に従事するインディヘナたちの居住地となった。危険を伴う作業であったために解体石材の下敷きになる事故が多発した。切り出された部材は満潮時に近くの海岸から筏に乗せられて運ばれた。一連の工事が終了した後は、パナマ建国までのおよそ300年間、省みられる事も無くスペイン人がやってくる前の状態に戻っていった。


2009年02月23日

タミル語(タミルご、?????)

タミル語(タミルご、?????)は、ドラヴィダ語族に属する言語で、インド南部のタミル人の言語である。同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、タミル語にはそれが(比較的)少ないため、主に語彙の面で隔離されており意思疎通は容易でない。インドのタミル・ナードゥ州の公用語であり、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。世界で18番目に多い7400万人の話者人口を持つ。1998年に大ヒットした映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』で日本でも一躍注目された言語である。

「タミール語」と呼称・表記されることもあるが、タミル語は母音の長短を区別する言語であり、かつ Tamil の i は明白な短母音である。そのため、原語の発音に忠実にという原則からすれば明らかに誤った表記といえる。タミル(Tamil)という名称は、ドラミラ Dramila(ドラヴィダ Dravida)の変化した形である。

南インドのタミル・ナードゥ州で主に話されるほか、ここから移住したスリランカ北部および東部、マレーシア、シンガポール、マダガスカル等にも少なくない話者人口が存在する。これらはいずれも、かつてインド半島南部に住んでいたタミル人が自ら海を渡ったり、あるいはインドを植民地化した英国人がプランテーションの働き手として、彼らを移住させた土地である。

タミル語はドラヴィダ語族の中で書かれた言語としては最も古く、現在残る文献の最も古いものの起源は紀元前後までさかのぼるといわれる。

北インドの多くの言語が三母音(サンスクリット等で母音/半母音として扱われるrやlを除いて)を基礎としており、ヒンディー語等ではe、oが常に長母音として扱われる。それに対してタミル語の基本はa, i, u, e, oの五母音であり、それに長短の別と二重母音(aiとau)が加わることで計12の母音を区別することになる。

子音は有気音と無気音を区別しない他、有声音(日本語で言う濁音)と無声音(同じく清音または半濁音)の間の対立もない。ただ単語の先頭や同子音が重なった場合に無声音、単語の中途、同系の鼻音の後などに有声音で発音される傾向がある(これらの点は日本語の連濁と相似である)。

タミル語で特徴的なのは、日本語で「ラ行」にあたる音、英語を含む西洋語なら r や l の流音に相当する音に、五種の区別が存在することである。また日本語を母語とする者にとって習得が難しいとされるものに、反舌音(舌の先を硬口蓋まで反らせて発音する一連の子音)があるが、こちらは他のインド系言語にも共通する特徴である。


[編集] 文法
サンスクリットの影響を受けて古くから文法が記述されており、現在の正字法は詩論を含む文語文法書であり13世紀に書かれた『ナンヌール』などに基づいている。

語順は日本語と同様、基本的にはSOV型。OSV型となる場合もあるが、動詞に接辞をつけて文相当の意味を持たせる場合はSOVが基本。ただし、マラヤーラム語と同様に、主部だけが文末に来るOVS型も少なからず用いられる。倒置表現とされる場合もあるが、新聞等にも見られ、修辞技法として意図されていないことが明らかとなっている。

修飾語は被修飾語の前につく。

主(格)語はしばしば省略されるが、日本語のように文脈でわかるからというより、スペイン語などのように動詞に人称が示されるため、省略されるのである。コピュラ(英語のbe動詞、日本語の「だ」)は用いない。所有を表すには「私は・・・を持っている」でなく「私には・・・がある」と表現する。

複文を作るための関係詞はなく、日本語と同じく「水を-飲む-人」、「私が-見た-物」という順でつなげばよい。ただし、文芸作品ではサンスクリット語の影響を受けた関係節表現が見られる。たとえば、サンスクリット語の「???・・・???・・・」の構文に従い、「??????・・・??????・・・」と表現するような実例がある。

タミル語は他のドラヴィダ諸語と同じく膠着語であり、単語は語根にいくつかの接辞(ほとんどは接尾辞)を付加して作られている。接辞は単語の意味などに変化を加える派生接辞と、文法カテゴリ(人称、数、法、時制など)により変化する活用接辞とに分けられる。膠着の長さにはあまり制限はなく、例を挙げると、 po?kamut?iya?tavarkal?ukka?ka (「行けない人々のために」という意味)は、

po?ka(行くこと)- mut?i(できる)- y(調音)- a?ta(否定)- var(人々)- kal?(複数)- ukku(ために)- a?ka(「ために」の強調)
と分析できる。


[編集] 品詞
名詞および代名詞は名詞クラス(印欧語の性のようなもの)により分類される。まず2つの超クラス(tin?ai)に分類され、さらに全部で5つのクラス(paal :「性」の意味)に分けられる。超クラスの1つは "rational" (uyartin?ai) で、人および神がここに含まれ、さらに男性単数・女性単数・複数(性によらない)に分けられる。複数形は単数に対する敬語としても用いられる。もう1つは "irrational" (ak?r?in?ai) で、その他の動物・物体・抽象名詞がここに含まれ、単数・複数(性によらない)に分けられる。このクラスにより代名詞が使い分けられるほか、主語のクラスによって動詞の接尾辞が変化する。

代名詞の前に動詞(「・・・する人」など)や形容詞(「よい人」など)を付加して複合名詞にする。この場合など、下の例(「・・・する人(物)」)のように、paal が接尾辞によって示される。

peyarccol (名詞)
uyartin?ai
(rational) ak?r?in?ai
(irrational)
a?n?pa?l
男性 pen?pa?l
女性 palarpa?l
複数の人 on?r?an?pa?l
単数の物 palavin?pa?l
複数の物
例:タミル語「・・・した人(物)」
ceytavan?
した男 ceytaval?
した女 ceytavar
した人々 ceytatu
した物(単数) ceytavai
した物(複数)

また格を表すのにも日本語の助詞に相当する接尾辞が用いられる。伝統的にはサンスクリットに倣って8格に分類される(が実際には複合的なものもあり、必ずしも8格に収まらない)。

また日本語の「こ・そ・あ・ど」にちょうど相当する4種の接頭辞i、a、u、e がある。val?i 「道」に対して、ivval?i 「この道」、avval?i 「あの道」、uvval?i 「その道」、 evval?i 「どの道」。ただし、uは古語および擬古体で用いられ、普通の現代語では用いられず、「その」はaにより代表される。

動詞は、人称、数、法、時制および態を示す接尾辞によって活用する。たとえば al?kkappat?t?ukkon?t?irunte?n? 「私は滅ぼされんとしていた」は次のように分析される:

al?i kka pat?t?u kon?t?iru nt e?n
動詞語根
滅ぼす 不定詞マーカー
受動態の態マーカーへの接続形 態マーカー
受動態 態マーカー
過去進行 時制マーカー
過去 人称マーカー
一人称
単数

人称と数は代名詞の斜格(語幹)に接尾辞をつけた形で示される(例では e?n )。三人称はクラスにより変化する。さらに時制と態も接尾辞として示される。

態は補助動詞によって表現される。受動態のみならず、主動詞に対し進行などの動詞のアスペクトを表すことができる。

動詞には強変化と弱変化の対応する2種あるものがあり、おおよそ強変化は他動詞、弱変化は自動詞に対応する。たとえば、「al?i」(強変化「滅ぼす」:al?ikka、弱変化「滅びる」:al?iya)、「ceer」(強変化「集める」:ceerkka、弱変化「集まる」:ceera)など。 また、語幹が対応する一組の動詞で他動詞と自動詞に対応しているものもある。たとえば、「aaku」(成る)に対する「aakku」(作る←成す)、「at?nku」(従う)に対する「at?kku」(従える)など。

時制には過去・現在・未来があるが、古語では現在形が見られず、未来形により表現されていた。未来形という名称にもかかわらず、実際の文章では「?したものだった」という過去の習慣や、「?する」という現在の意味、「?するだろう」という推量の意味にも用いられ、未来の意味以外にも用法は広い。法は命令法、願望法のほか、話者の態度(事象やその結果に対する軽蔑、反発、心配、安心など)を示すことができる。

このほか、準動詞(動名詞や種々の分詞など)も動詞語幹に接尾辞をつけて作られる。

形容詞と副詞の区別はなく(uriccol という)、名詞を基本として接尾辞をつけて形容詞または副詞とするのが普通(独立の形容詞・副詞も一部ある)。ほかに接続詞(it?aiccol )がある。


[編集] 他言語からの影響
タミル語はきわめて近縁のマラヤーラム語という言語を持っているが、両者は同一の言語の方言の関係にあるとは必ずしも言いがたい。それはマラヤーラム語は北インドのサンスクリット語、プラークリット、ヒンドゥスターニー語をはじめとするインド・アーリア語族の言語から語彙、文法面での絶大な影響を受けており、その他アラビア語、ペルシア語、ポルトガル語、英語などの語彙を借用しているため、両者の意思疎通が容易でないからである。 但しタミル語がドラヴィダ語族の諸語の中では最も上記の言語からの影響が少ない部類に入るとは言え、サンスクリットやヒンドゥスターニ語などからの借用語は少なからずある。


[編集] 日本語クレオールタミル語説
国語学者大野晋は、日本語の祖語が何らかの点で、ドラヴィダ語の祖語と関係を持つとする説を唱え、タミル語と日本語のそれぞれの単語等を比較して、両者に共通するものが多いことを、その論拠の一つとして挙げた。後に大野はこの説を修正し、日本語はドラヴィダ語の一つであるタミル語に由来し、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えた。しかし大野のこの日本語起源説には賛否両論があり、未だに解決を見ていない。

日本語とタミル語との関係に着目していた大野晋は、1981年『日本語とタミル語』(新潮社)を出版し、本格的な研究を公表した。これに対し、比較言語学者の風間喜代三は1983年、『東京大学公開講座 ことば』(東京大学出版会)の「ことばの系統」の項目で、大野の研究手法に対し批判を行った。これにより比較言語学者やタミル語学者を始めとしたほとんどの言語専門家の間で、大野に対する批判的な姿勢が定着した。

大野晋はその『日本語の形成』(岩波書店 2000年)により、音韻、語彙、文法の三点において、日本語はタミル語と対応していることをより詳細に論じた。同書は、風間喜代三からの語彙対応に関する批判に対しては、摘示の語彙を削除もしくは変更することで対応している。同時に、これまでの系統論を破棄し、日本語はタミル語のクレオール語であるとするクレオールタミル語説を展開した。現在のところ他の言語学者は、この日本語がクレオールタミル語であるとの主張については、何の批判もできていない。

言語専門家の批判では、大野説の一番大きな欠点は、比較言語学の正統的方法に従っていないということである。特に、歴史性を捨象して時代の整合性にそぐわない単語比較を行っている点が問題である、とする。このため、比較言語学的見地からは、大野説は認められないことになる。しかしながら、日本語がクレオールタミル語であるならば、それは厳密な意味での比較言語学の対象ではないといえる。なぜならクレオール語であるならば、タミル語と日本語との共通祖語を抽出する必要は無いからである。また、時代の整合性をいうならば、他の日本語起源説である、アルタイ語説・南島語説なども歴史性を捨象しており、時代の整合性があるのかどうかも全く不分明である。この点で、大野説に対する批判は、言語学者などによる「新説への排他的動機」が働いているという印象も拭えない。

また、言語学者は、音韻の複合対応を問題にする。しかしながら、タミル語内部で、例えばa/i、a/u、k/v、v/p、v/mなどの交替がある(タミルレキシコン参照)。更には日本語においても「さびしい」と「さみしい」など唇音同士の交替、また「ほどろ」と「はだら」などの交替がある上に、原初の日本語の音韻などを保存していると見られる古代東国方言では「こころ」を「けけれ」と言うなど、活発な交替がみられる。したがって、両語間のこのような内部交替に影響され、タミル語と日本語との対応も、a/o交替が通常なところ、タミル語内部の交替に影響されたがのごとく、i/o対応、u/o対応が見られ、また子音においてもv/w、v/f対応が通常なところ、m/w対応、m/f対応、v/k対応などが頻繁に見られる。
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

このように、タミル語と日本語との対応には複合対応が必然的に伴なうため、印欧比較言語学の手法の全てを正統的方法と見る立場から、タミル語と日本語との比較を見た場合、何らかの否定的見解に達してしまう。このような事実から我々が学べることは、西洋流の比較言語学は、必ずしも印欧語族以外の言語を比較対照とする場合には、その方法論は<いわゆる>正統的とは言えない場合もある可能性も否定できないということである。例えば高津春繁も『比較言語学入門』(岩波文庫.1992年刊)において、既に印欧語族にもっともその条件が相似し、ほとんどそのまま印欧比較言語学の方法を取入れることを得たセム・ハム語族の研究においてすら、印欧語族の比較方法をそのまま用いることは無理であるごときことを述べている(p.9参照)。それゆえ、このような認識を受け入れない限り、あるいは日本語がクレオールタミル語であるという説は、仮にそれが正しい説であっても、永久に受け入れられないおそれもある。

以上のように大野説に対しては賛成・反対の様々な意見がある。比較言語学的には手法に問題があるが、他方、文化的な交流面でのドラヴィダ文化と日本の古代文化の連関を考察している大野の起源論には無視できない面もある。例えば、『日本語の起源 新版』(岩波新書・1994年)で大野晋は、タミル文化圏から日本への文化移入に、理由不明の500年のタイムラグが伴っていることを示している(同書P.114)。後になって、従来の弥生時代の開始を定義付けていた放射年代測定の結果に対する解釈の混乱が見出され、日本の弥生時代の開始が500年遡る可能性が出てきた。それにより、大野晋が主張していた、農業・宗教祭祀・金属器とそれらに伴う言語・詩歌などの文化がタミルから日本列島へ伝えられていた可能性がある、という説との整合性が表れている。こうした事柄への反論も、現在のところまだ出ていない模様である。

2004年、大野晋はそれまでの研究の集成として『弥生文明と南インド』(岩波書店)を著した。言語のみならず総合的な文明の移入、朝鮮語を加えた三者の関連といった点を重点に論じた新たな著作となっている。

2009年02月06日

ナイフ形石器

後期旧石器時代は、土器出現以前で、一般にわれわれと同じ種の現生人類(ホモ・サピエンス)と彼らに固有の石器技術である石刃(石刃=せきじん)技法とが認められることを特徴とする。彼らは、石製道具の生産手段として細長い剥片を連続的に打ち剥がす石刃技法と呼ばれる技術を好んで用いた。岩石資源利用効率の高さが関連したといわれている。日本列島では約3万年前以降、この石刃技法によって作られた石刃とそれに関連する石器群が多量に製作・使用されており、これらのうち細長に整形されたものがナイフ形石器と呼ばれる。切り出し小刀や日本刀のような形をしており(刃とそうでない部分との角度の違い)、その大きさは1cmから10数cmまでと幅広い。木や骨の軸柄に取り付けられ、突いたり切ったりする多様な道具の機能部を構成したと考えられている。ただし肝心の軸柄の部分は見つかっておらず、どうやって取り付けられていたのかはよく分かっていない。これは軸柄がおそらく、土中では長い年月残りにくい木材や骨で作られていたからである。日本以外の地域や異なる時代の類似の道具から類推すると、どうやら小型のものは柄の横側に多数並べてはめ込まれ、大型のものは柄の先端に単独で取り付けられたと思われる。本州?四国?九州におけるナイフ形石器群の終焉は今から約1万5千年前で、組織的な細石刃石器群の出現とほぼ同時期である。
イタ飯 タップ ナビトーチ レザー ひなづる メンド オラト 若き獅子 スイセン お山 シャシー フェタミン ブルージー ハリファ シンガ マニュ チリ バカンス スタバ ピアプ プラス シュード チェス シャトル ブレン プライス ビング 風神雷神 パライパ リンプ フォッ サラバード トシン バンド チロル もうげつ ラザニ ルサロ もみがら プルーフ アップ セクター ハーベ ローション インター ザクロ ブロカ ジェラー モルダビア ファー

細石刃
細石刃(さいせきじん)とは小さい石刃のことである。骨や木の軸に掘られた溝に並べてはめ込み、各種道具の機能部を構成する。同じ形の石刃でもはめ込む軸の大きさや形状によって異なる機能と用途を持った道具を作ることができる。定義的には中期旧石器時代から存在するが、押圧剥離による組織的な細石刃技法の出現は後期旧石器時代に特有である。大陸では早くから出現し、古ければ3万5千年前程度といわれている。大陸と当時陸続きだった北海道では2万年前には使われ始めるが、津軽海峡をはさんだ本州・四国・九州(3島は陸続きで、朝鮮半島とは朝鮮海峡をはさんでいる)では1万5千年前以降(暦年代ではもう2千年ほど古い)のようで、ナイフ形石器の急激な減少ないし消滅と相関する。1万2000年前頃、細石刃石器群は終末を迎える。細石刃石器群を出土する遺跡は北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。

土器の出現
細石刃石器群の後に、大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が出現する。シベリア方面及び樺太から北海道という北のルートを渡ってきたと考える者がいるが、どこにも根拠がなく、少なくとも津軽海峡以南の地域ではそれまでの伝統から発達して出現した可能性のほうが高い。  日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていないが、一応北方から伝播してきたと考えられている。しかし特に証拠があるわけではない。旧石器時代の終末に、九州では豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。北海道では本州よりも少し遅れたとされる。北から来たのに、南で発達するという一見矛盾する現象は、その出現の契機と発達の背景とが異なることを意味している。南九州でいち早く発達した様子が知られていることから、それには気候の寒暖と植生の違い、ひいては生業内容の違いが関係したと推測されている。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。

木器
木器は遺物として残りにくいが、約12?5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということになり、旧人が工作した板ということになる。

木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。

食料の獲得
旧石器時代の人びとの狩猟のようすを示すジオラマ(兵庫県立考古博物館)旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。

漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。

縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたというから、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからである。

更新世(洪積世)の人類化石
日本列島は火山列島とも呼ばれるように更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人骨・獣骨化石が残る例がほとんどない。こうした中でもこれまで洪積世人類化石として知られていた例も多かった。しかし、C14年代測定法や再検討の結果、それらの多くが洪積世人類化石の地位を失い、静岡県の浜北人と沖縄県の港川人とが更新世人類とされている。

浜北人
浜北人は、静岡県浜北区根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960?1962年に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・?骨・脛骨)の人骨化石である。上・下二つの地層から出土した。それぞれの層からでた獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。

港川人
1967年?1969年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の港川採石場の石灰岩フィッシャーで実業家・大山盛保によって人骨(上腕骨・尺骨・?骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。上部港川人骨と呼ばれている。年代はおよそ1.2万年前と考えられている。

1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志堅村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体をかぞえ、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ているところが目立つ。頭蓋では、骨が厚く、前頭骨が小さく、脳頭蓋の下部が幅広いなど独自の特徴でかなり原始的である。また、男性の推定身長は153?155センチメートルで、上半身は華奢であり、かなり小柄である。

山下町洞穴人
沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6?7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石
沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる)

これまで更新世人類として知られていた人類化石
葛生人(くずうじん)は、栃木県葛生町で1950年代に発見され、元早稲田大学教授直良信夫によって更新世人類と考えられた。しかし、発見された骨8点のうち4点は、動物骨であることが確認された。残りのうちの2点は放射性炭素年代測定の結果400年前の人骨であることが分かった。
三ヶ日人は、1959年?1961年に静岡県三ヶ日町(現浜松市)の石灰岩採石場から頭骨片5点、?骨(腸骨)、大腿骨など複数の成人の骨が発見され、後期更新世人類と考えられたが、放射性炭素年代法により9000年前の縄文時代早期の人骨と分かった。
牛川人は、1957年に愛知県豊橋市牛川鉱山で上腕骨と大腿骨の化石が発見され、東京大学名誉教授鈴木尚によって中期更新世人類(旧人)と考えられたが、人骨の特徴を備えていなかった。
聖岳人は、1962年に大分県本匠村聖嶽洞穴で前頭骨片と頭頂後頭骨片が発見され、元新潟大学教授小片保によって中国の山頂洞人と似ているとされたが、形態面や年代推定から歴史(江戸)時代に属する可能性が極めて高くなった。
明石人は1931年に兵庫県明石市で直良信夫により?骨が発見され、直良は旧人としたが学会は受け入れなかった。その後、人骨は戦争で焼失し石膏模型のみが残った。戦後、長谷部言人がこれを原人として論争が起こったが、現在ではごく一部を除き新しい時期の人骨とする意見が強い。

2009年01月22日

バターン死の行進

バターン死の行進(―し―こうしん、Martsa ng Kamatayan sa Bataan)は、太平洋戦争中1942年フィリピンに於ける日本軍によるアメリカ軍兵士及び民間人捕虜のデスマーチ。これに伴い大量の捕虜と日本兵が死亡、負傷した。

フィリピンでは4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将率いる第十四軍がルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのはダグラス・マッカーサー率いる米比軍であった。マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功した。3月12日マッカーサーは "I shall return" の言を残してコレヒドールから脱出した。4月9日日本軍はコレヒドールを死者130名、負傷者6808名を出して占領。1942年4月10日降伏したエドワード・P・キング少将率いる米比軍は約7万6千もの捕虜を出した。これは日本側の2万5千との予想[1]を大きく上回るものであった。

日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった[1]。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドネル基地に収容所を建設した。コレヒドール要塞では食料が尽きており、また日本軍さえも十分な食料を用意できておらず、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

死の行進のルート 区間 距離 備考
マリベレス?バランガ 約30km
バランガ?サンフェルナンド 約53km トラックでの輸送(一部のみ)
サンフェルナンド?カパス 約48km 鉄道での輸送
カパス?オドネル 約12km

捕虜の扱い
トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外に対し、多くの虐待行為があった。この背景として、日本軍ではもともと戒告のために殴打することが日常的にあり、捕虜が不服従とみると暴力をふるったのである。現地の指導的立場にあった辻政信は「この戦争は人種間戦争である」として、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。
ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるして、実行したものもいた。収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、元の人数から脱走者を除いた、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。

脱走した捕虜から事情を聞いたアメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として、戦意向上、すなわち世論の反日感情を掻き立てることに利用した。この事件は組織的に行われたものではないが、ほとんどの生存者は「死の行進」が日本軍の最高司令部によって計画されたものだと信じていた。本間らが実態を把握したのは2ヶ月後であった。

戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された

2009年01月15日

麦角から有効成分を抽出する研究

ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

19世紀後半になると、麦角から有効成分を抽出する研究が盛んとなり、1907年にはG・バルガーとF・H・カールがエルゴトキシンを抽出するのに成功し、A・シュトルとE・ブルックハルトらがエルゴバシンを抽出した。その後、W・A・ジェイコブズとL・C・クレイグらはエルゴバシンの科学的分析を行い、麦角アルカロイドの基本的構造分子を分離しリゼルグ酸と名づけた[15]。 1918年、A・シュトルが抽出したエルゴタミンは偏頭痛薬や産科での止血剤になっていた。1930年代頃にはイギリス、アメリカの化学界は麦角アルカロイドの研究が主要となっていた

LSDは1938年11月にスイスのバーゼルにあるA・Gサンド社(現・ノバルティス)の研究室でスイス人化学者アルバート・ホフマン(Albert Hofmann, 1906年1月11日 - 2008年4月29日)によって合成された。その幻覚剤としての発見は1943年4月16日になされ、これがLSD発見の日とされている。

当時、サンド社は薬用植物の有効成分を分離、もしくは植物から僅かしか得られない有効成分を化学合成する研究計画を始めていた。ホフマンは麦角アルカロイドについて研究班をつくらず単独で研究し始めた[17]。ホフマンはまずリゼルグ酸とプロパノールアミンを結合させることによってエルゴバシンの合成に成功した[18]。そのことによりさらにエルゴバシンの薬理特性は改良され、子宮収縮、子宮止血剤として「メテルギン」の商標で発売された。

ホフマンはさらにリゼルグ酸化合物の研究を進め、1938年11月、リゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質、LSD-25を合成した。ホフマンはこの化合物を循環器及び呼吸促進の作用が得られると予測したが、エルゴバシンの70%の子宮収縮作用を示しただけで、動物実験では動物達が「落ち着かなくなる」程度の効果しか認められずその研究は中止された[19](ただし、虫よりもイヌやネコ、イヌやネコよりもサルというように高等な動物であるほど効果は大きかった[20])。

しかし、ホフマンは「奇妙な予感めいたもの」により、1943年に再びこの物質を取り扱うことにした。そして4月16日、LSDを結晶化している際に非結晶性のごく微量のLSD溶液が指先につき、LSDが指先の皮膚を通して吸収されることによって、ホフマン自身によりLSDの効果が確認された。ホフマンは眩暈を感じ、実験を中断せざるを得ない状態に陥ってしまった。そして実験を中断して帰宅した後も軽い眩暈に襲われていた。帰宅するなり横になっていたが、極めて刺激的な幻想に彩られていた。日光が異常に眩しく感じ、意識がぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が目の前に展開していた。その状態は2時間ほど続いた。これがLSDの幻覚作用発見の瞬間であった。

そしてホフマン博士は4月19日、再び(1度目は意図したものではなかったが)LSDを0.25mg服用して自己実験を行った[22]。

ホフマンは以前と同質かあるいはさらに変化に富んだ奥深いものを体験することができた。しかし、感覚の変化が深まるにつれて供述することが困難となり、自己実験の供述を記録していた女性助手に家に送ってくれるよう頼まざるを得なかった。自転車で送ってもらっている途中も、視野にある全ての像は揺れ動き、歪曲化され、自転車が一向に進んでいるように感じられなかった(後にこの日は「LSD自転車旅行の日(Bicycle Day)」と呼ばれ、ホフマンは創始者としても有名になった)。

家に着いても症状は一向に治まらなかったため、助手に医者を呼んでもらっていたが、その間に隣に住んでいる婦人が牛乳を差し入れてくれた。空間が全て回転し、部屋の中のものや家具がグロテスクに変化し、まるで命を持っているかのように絶えず揺れ動き、隣の婦人も色の黒い醜い顔をした意地の悪そうな魔女に見えた。医者はホフマンがとてもしゃべる状態ではなかったため、研究助手から実験のあらましを聞いていたが、瞳孔以外には異常は認められず、ホフマンをベッドまで運ぶとそばで観察しているだけだった[22]。

やがてその感覚が消えると、ホフマンは感謝と幸福な気分が満ちてくるのを感じた。そして万華鏡のように幻想的な現象が起こり始めるのを見た。視界は環状と螺旋状が開いてはと閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。ホフマンはそのまま疲れ果てて眠ってしまった[22]。

翌朝、目が覚めたときはまだ疲労が残っていたが、快適な気分と新鮮な生命力がホフマンを満たしていた。朝食はとりわけ美味しく、朝食後の散歩ではあらゆるものがきらきらと光り輝き、世界は再び創造されたかのようであった。LSDはバラエティに富みしかも刺激的な酩酊を生み出しながら、後に残ることなく、実験の後でホフマンが感じたのは肉体的、精神的爽快であった[22]。

この後、ホフマンの報告書の提出を受け、薬理学部門の責任者と彼の2人の共同研究者によっても実験が行われ、効果が確かめられた