ポーランドの西側同盟国の政府は9月3日にドイツに宣戦布告した。しかし実際にはポーランドに対して具体的な援助をしなかった。ドイツ軍のほとんどの戦力(装甲部隊の85%)はポーランド攻撃に向けられていたのに、フランスはドイツを攻撃せず、独仏国境は静かなままだった。人はこれはまやかし戦争(英語phony war、フランス語Drôle de Guerre、ポーランド語Dziwna wojna、ドイツ語Sitzkrieg)と呼んだ。
ポーランド軍は国境付近でのいくつかの戦闘で勝利を収めることができたが、全体としてのドイツ軍の戦略的、戦術的、数的優位はゆるがず、国境地帯からワルシャワやルヴフの方へと後退させられていった。ドイツ空軍は作戦の早い段階で制空権を確保した。北から攻め込むクルーゲの部隊が当時の国境線から10キロメートル先にあったヴィスワ川に到達し、キュヒラーの部隊がナレフ川に行き着いた9月3日までに、ライヒェナウの機甲部隊はヴァルタ川を越えていた。2日後にはライヒェナウの部隊の左翼がウッチ市の後方へ進み、右翼がキェルツェ市に到達した。そのうちの1部隊は9月8日にはワルシャワ近郊まで迫ったが、これは最初の1週間で224キローメートルを進んだことになる。ライヘナウの右翼のうちの軽装の部隊は9月9日までにワルシャワとサンドミェシュ市の間にあるヴィスワ河畔地域に到達していた。このとき南部のリストの部隊はプシェミスル市近郊のサン河畔にいた。この間、グデーリアンは第3軍の戦車を率いてナレフ川を渡り、ワルシャワを包囲するようにして、ブーク川の敵戦線を攻撃していた。ドイツ軍全軍は予定通りに「白の場合」作戦を実行していた。ポーランド陸軍は寸断されて互いに連絡がつかず、いくつかの部隊は退却し、他の部隊は離れた味方と連携のとれないまま近くのドイツ部隊に攻撃を敢行せざるを得なかった。
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ポーランド軍はこの国境の戦いと呼ばれる一連の戦闘の後、最初の1週間でポモージェ地方、ヴィエルコポルスカ地方、シロンスク地方を放棄せざるを得なかった。これによって、国境地帯を広く防衛するというポーランドの当初の計画は完全に誤りであったことが明らかとなった。一部に遅れがあったものの、全体としてドイツ軍の進軍はほぼ予定通りに行われた。新しく設定された東方の防衛線にまで後退するポーランド部隊はドイツ軍の進撃のペースに間に合わなかった。9月10日には、ポーランド軍総司令官ルィツ=シミグウィ元帥は全軍に対し東南部のいわゆるルーマニア橋頭堡地方への全面撤退を命令した。
一方ドイツ軍はヴィスワ川西方(ウッチ市やポズナニ市など)のポーランド軍に対し包囲網を狭めており、東部への進撃の準備にとりかかっていた。戦争の最初の数時間に猛烈な爆撃を受けたワルシャワ市は9月9日にドイツ地上部隊の最初の攻撃を受け、9月13日からは攻囲を受けた。そのころ、ドイツ軍の最前線部隊は東ポーランドの中心都市であるルヴフ市にまで到達していた。9月24日には1,150機ものドイツ軍機がワルシャワ市街を攻撃した。